[北は宮小路、南は千度小路、西は本町、東は高梨町・東海道沿いに東西に延びる町人町]この町は、「北条氏康朱印状」(1566年)に初めて町名が見られます。この頃、この町は「上町」、「下町」に分かれていたと伝えられていますが、その区分けは明らかではありません。江戸時代には、東海道に面した町の西側に城主専用の出入口である「浜手門」と(注1)「高札場」があり、同時代末期、町内には本陣1(大清水)、(注3)脇本陣2に旅籠が23軒ほどあって、隣の本町とともに小田原宿の中心でありました。なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は42軒でした。(注1)高札場とは、幕府の法令などを掲示する場所のことです。(注2)本陣とは、街道の宿場に置かれた大名、公家、幕府役人などのための旅館のことです。(注3)脇本陣とは、本陣の予備にあてられた街道の宿舎で、本陣にあきのない時に大名などが利用した旅館のことです。
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