青物町(あおものちょう)
この町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、延宝3年(1675)の記事に初めて町名が見られます。 「新編相模国風土記稿」(1841年)には、『いにしへ野菜の市立ちしより町名になる』とあります。東京の日本橋にあった「青物町」は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人達が移り住んだといわれています。 この町は、商人町の色が濃いところで、旅篭はありませんでした。 なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は46軒でした。
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