唐人町(とうじんちょう)

町の名は、藩主稲葉氏の「永代日記」の正保2年(1645)の項に「唐人町」とあるのが初出です。この町の一画には、もと城下の有力な町人、中村善四郎の屋敷がありましたが、この通りができたのは、寛永11年(1634)の将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に至る御成道(おなりみち:宮家、摂家、将軍の通る道のこと)が新設されたため、この屋敷は他の土地に移りました。この御成道の東端には、土塁をともなった柵門(黒門)が設けられていましたが、その通行は将軍家のみで小田原藩主を含めて一般人は通行できませんでした。 慶長12年(1607)、朝鮮通信使が小田原を通過した際、一人の中国人が面会し、『50余人が遭難し、小田原に漂流した。この内10余人は帰国したが、残りは許されてこの地に滞在し、唐人村と呼ばれている』(「海槎録」より)と話した「唐人村」が「唐人町」と関係あるのかも知れません。
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