この地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に「弁財天曲輪」として初めて見られます。 この地は、武家地ですが、江戸時代初めは、「弁財天曲輪」と呼ばれていました。 元禄10年(1697)、後期大久保氏(大久保忠隣のひ孫忠朝が下総佐倉城(千葉県)から移って小田原城主となり、その後10代で明治維新を迎えるが、この約180年間の大久保氏のこと)が藩主のなった頃、蓮池の南側にある「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになりました。 幕末には、この地に6,7軒ほどの中堅藩士の屋敷があり、二宮尊徳はここに住んでいた三幣又左衛門を「弁財天の旦那(だんな)」と呼んでいました。 なお、ここが藩主付きの女性の隠居所となったときもあります。
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