半幸町(はんこうちょう)

この地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に「竹花裏はんこ町」として見られます。 稲葉氏時代(1632~85年:寛永9年(1632)、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、正通が越後高田城(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)には、この地を「車地蔵小路」と呼びましたが、その由来は、ここにあった伝心庵(でんしんあん:小田原北条氏の氏寺であったが、北条氏滅亡後、大久保氏時代になってこの寺は、寺町(中町)に移され、その跡に永久寺が建立された)の車地蔵にちなんだものと考えられます。 文化年間(1819年前後)、この地には、長沼流軍学者山下与太夫も住んでいました。彼は四国から菱(ひし:池や沼に生える水生の1年草で、実は扁平で菱形をしており、両側に鋭いとげがありました。また、実は食用になる)の種を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたといわれています。
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