この地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて見られます。 地名の由来は、慶長19年(1614)、小田原城主大久保忠隣(江戸幕府の初代将軍徳川家康は、慶長10年(1605)「大御所」として将軍を引退しましたが、幕府の実権はにぎっていた。そこで、2代将軍秀忠と家康による二頭政治があらわれてきた時、大久保忠隣は2代将軍の補佐役であり、大御所付きの補佐役は本多正信だった。当然この二人の間に対立がはじまり、慶長19年(1614)に忠隣が失脚した)が改易(罰をうけ、城を取り上げられること)となった時、その夫人「日向御前(ひゅうがごぜん:石川日向守の娘で、この屋敷が谷津にあったため「お谷津様」とも呼ばれた)」が閉居した屋敷跡であったためといわれています。 貞享3年(1686)に大久保氏が再び小田原藩主になると、この一部に割屋敷をつくりましたが、それ以後ここが日向屋敷と呼ばれるようになりました。江戸時代末期には約14軒の藩士の住まいがありました。
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