この地名は、小田原城絵図の一つである「嘉永図」(1853~67年)に初めて見られます。 この地は、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))につくられた小田原城三の丸空掘が接する西側には「二重外張(ふたひとばり)」と呼ばれる虎口(こぐち:城の出入り口))がありました。この地の東端に近い光円寺新墓地には、大外郭の空掘の遺構が現在も見られます。 なお、この地が矢場として利用されたかどうかは、明らかではありません。
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