この地は、慶長19年(1614)から寛永9年(1632)までの間の小田原城の姿を伝える「加藤図」では、「こむ年山」と、また、江戸時代前期(1630~1660年)の「北条五代記」には一部誇張を含めながらも『西は富士(板橋の富士山)と小峯山つづきなり、二つの山の間に三重の堀をほり、小峯山を城中に入れ』と記されています。 このように、この地は、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻め(豊臣秀吉が九州征伐後に全国統一の総仕上げとして、関東最大の勢力であった小田原北条氏を滅ぼした戦い)に備え、小田原北条氏が小田原城総構(「小田原攻め」に備え、小田原北条氏が築いたもので、城下町を取り込み、自然地形を利用して、土塁、堀を囲わせた城構えをいう)を設けた時、城域に取りいれられたところです。 場所は、総構の西端に当たり、また高地(標高120メートル)にあって東西に細長い台地です。周囲には、中世の小田原城郭の遺構が最もよく残っていて、南側には空掘や大型の矢倉台跡が、西側には外張形(とばりがた:戸張とは、戸をつけた門のある入り口のこと)の堀底道があり、さらに所々に砲丸石(中世の諸城跡にみられ、守備の重要な場所に集められていることが多いので、戦闘に用いられたと考えられている。一般的に握りこぶし大か、やや大型の扁平な石が多い)が散在しています。 なお、地名の由来は、小田原攻めのときこの地に陣鐘(戦陣で、戦闘の合図に使用した鐘)がおかれていたためといわれています。
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