この地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて見られます。 この土地は、もと周囲を武家地などに囲まれた四辺形の区域で、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))には、「大雲軒」(市内板橋の興徳寺の前身)という寺がありました。江戸時代に入り、稲葉氏時代(1632~85年:寛永9年(1632)、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、正通が越後高田城(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)には、藩の蔵屋敷(年貢米などを保管するために設けられた倉庫と管理事務所)や菜園、茶園などに利用されました。さらに、後期大久保氏時代(1686~1871年:大久保忠隣のひ孫忠朝が下総佐倉城(千葉県)から移って小田原城主となり、その後10代で明治維新を迎えるが、この約180年間ののこと)になると、武家地になり、本源寺の東横から裏手にかけて割屋敷が設けられました。
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