八幡山(はちまんやま)

この地名は、小田原城絵図の一つである「正保図」(1644~54年)に初めて見られます。地名の由来は、この地に2つの八幡社があり、これにちなんだものといわれています。 その1つは、北条氏康が勧請(かんじょう:神仏の霊を移して祀ること)したと伝えられ、県立小田原高等学校東側下段にありました。また、もう1つの八幡社は、江戸時代初期、小田原城主大久保忠世が祀ったもので、同校北側にありました。後者の大久保氏の社は、徳川家康の長男三郎信康(永禄2年(1559)、徳川家康の長男として駿府に生まれ、後に岡崎城に移って織田信長の娘と結婚した。信康は、豪勇の武将だったが、天正7年(1579)、小田原城主大久保忠世が二俣(静岡県天竜市)城主の時に信長の命令で信康を自害させた)の霊を鎮めるものであったといい、江戸時代には「新御宮」または「若宮」とも呼ばれていました。これに対して、前者の北条家の社は、「本丸八幡」といって区別していました。 なお、この地は「八幡」とも呼ばれてきました。
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