物語

2012年02月28日 11:07

第1話 東海道(とうかいどう、うみつみち)小田原宿

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東海道をはじめ多くの宿場(宿、宿駅とも呼ばれた)は江戸時代以前より存在し、古代の東海道 は本州太平洋側の中部(三重県~茨城県の大平洋沿岸地方)を指す行政区分の呼び名であり「道」としての東海道は律令制による「駅」が最初です。

7世紀後半には「伝馬制」が整備され、平安時代の半ば「駅制」崩壊した後に「宿」が発達しました。鎌倉幕府は東海道の「宿」ごとに早馬を置いたり人夫を常 備させたりしたのです。五畿七道(北海道、畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)の一つである東海道は実質的には朝廷のある京都から鎌倉まででした。

近世の宿場は徳川家康の五街道整備により関ヶ原合戦の後に始められ1601年(慶長6年)先ず東海道、中山道と順次進められ東海道 は品川~大津までを53駅と定め最後に1624年(寛文6年)庄野宿(45番目)ができました。大津の後は東国への出発点京都三条まで三里です。

小田原宿は小田原十一万三千石の城下町にあり江戸から九番目、日本橋から20里(81.5㎞)の距離、江戸からの旅人は二日目に小田原宿に着くことを目指していました。

小田原宿には本陣4脇本陣4旅籠95軒あり、参勤交代、お伊勢参りの旅人、行きかう商人達で大変賑わっていました。後には小田原宿は東の横綱と言われるようになりました。

宿場には公用輸送等のために人馬の常設が義務づけられ費用は宿場持ちでした。その代わりに年貢の減免や公用の無い時にお金 をとって一般の仕事を受けても良いことになっていました。

江戸時代の宿場の範囲は見附~見附と決められ小田原宿の場合は江戸口見附(山王見附)~板橋見附(上方見附)の間を小田原宿と呼びます。

宿場によっては木戸が設けられ入り口出口の木戸が決められた時間によって開閉される所もありました。小田原宿には江戸時代以前より現在も存続している店が 数軒有ります。

現在の「本町」は江戸期に入りここから町割りをするという意味で名付けられました。それ以前は通り小路と呼ばれていました。  

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