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「のぞいて!おだわら」0465.netで史跡と商業の街・小田原の観光スポットを紹介!
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小田原城

小田原城の歴史は、応永24年(1417年)に大森頼春が小田原入部し、小田原城を築城したといわれています。永禄4年(1561年)長尾影虎(上杉謙信)が小田原城に来攻。このころまでに本丸が現在地に移り、二の丸の外郭ができました。永禄12年(1569年)今度は、武田信玄が小田原に攻め込みました。
この後、三の丸外郭構築に着手し、天正15年(1587年)に小田原城の大修理・整備工行事がわれ、三の丸外郭が完成したといわれています。天正18年には、豊臣秀吉の侵攻に備え、大外郭をほぼ完成させ、このころ中世日本で最大の城になりました。
その後、「小田原合戦」により、北条氏は豊臣軍に降伏し、徳川家康の家臣・大久保氏が入城。小田原城は三の丸以内に規模縮小されました。それから明治3年(1870年)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。復興がはじまったのは、昭和9年の二の丸隅の平櫓からで、昭和35年、天守閣が復興し、続いて常盤木門、銅門が次々に再建され、現在に至っています。

城址

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀初めごろのことと考えられています。明応4年(1495年)に戦国大名小田原北条氏の居城となってから、関東支配の中心拠点として次第に拡張整備され、豊臣秀吉の来攻に備えて城下を囲む大外郭を完成させると城の規模は最大に達し、日本最大の中世城郭に発展させました。城の周囲9キロメートル余りにわたる総構を巡らしていました。 江戸時代を迎えると小田原城は徳川家康の支配するところになり、その家臣大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に著しく縮小されました。 稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近代城郭として生まれ変わりました。 その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきました。 しかし、小田原城は明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正12年(1923年)の関東大震災によりことごとく崩れおちてしまいました。 現在の小田原城は、本丸・二の丸の大部分と大外郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960年)に天守閣が復興、次いで昭和46年(1971年)には常盤木門が復原されました。 さらに小田原市では、貴重な文化遺産である小田原城跡をより一層親しんでいただくとともに、長く後世に伝えていくことを目的として、本格的な史跡整備に取り組んでいます。

天守閣

天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたものです。 古文書によると寛永11年(1634年)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っています。 元禄16年(1703年)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいましたが、天守閣は宝永3年(1706年)に再建され、明治3年(1870年)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。 現在の天守閣は、昭和35年(1960年)5月に、市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時の作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。標高60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。

ご案内

■開館時間
午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
■休館日
12月29日から1月1日まで
■入館料
個人:一般(15歳以上)400円/小・中学生150円
団体(30人以上):一般320円/小・中学生120円/高校生150円
(小田原城歴史見聞館とのセット券あり)
■交通
小田原駅から徒歩10分
■詳しいお問い合わせ
小田原城:0465−23-1373
小田原市観光課:0465-33-1521